100年前の新宿を訪ねて――新宿区立漱石山房記念館

 

夏目漱石胸像(富永直樹 作)

新宿と言うと、何を思い浮かべますか?
超高層ビル群? 有名ショップでお買いもの? 迷路のような駅と複雑な鉄道路線?
昔は花園神社でテント芝居を見たり、ジャズ喫茶や歌声喫茶に通った……なんて方もいらっしゃるかもしれませんね。

そんな皆様のご記憶よりも、もっと前のお話です。
新宿は、後に日本の文学史を塗り替えるひとりの文豪が生まれ育ち、やがて最期の時を迎えた街でもありました。

 

2017年9月にオープンした新宿区立漱石山房記念館。1階の展示室は、開放的な空間です

今回ご紹介させていただくのは、新宿区立漱石山房記念館。
漱石の住んでいた家、通称「漱石山房」の跡地に建てられたミュージアムです。

漱石は、1907年(明治40年)から死没する1916年(大正5年)までの9年間を、「漱石山房」で過ごしました。
建物そのものは、残念ながら1945年の空襲で焼けてしまったとのこと。
けれども、その代わりに、いつでも彼の功績やその背景を振り返ることができる記念館が建てられたわけですね。

1階の導入展示では、生い立ちや時代背景、鏡子夫人との結婚生活から食の好みに至るまで、さまざまに紹介されています。
まずは漱石にまつわる基本プロフィールの確認を……といったところでしょうか。

ところで、充実した情報量ではありますが、丁寧な音声ガイドもありますので、目が疲れても大丈夫。
日英中韓の多言語対応ですので、外国人のお知り合いをお連れになっても喜ばれそうです。

 

「漱石山房」の再現展示室

「山房」って何だろうと思っていたのですが、どうやら書斎という意味があるようですよ。
館内では、漱石山房の書斎部分を再現した部屋を見ることもできます。
再現図の作成や、複製資料の製作等に関しては、実資料を所蔵する県立神奈川近代文学館の多大なるご協力により実現したのだそうです。

まずは写真をご覧ください、圧巻の書籍数です……!
かなりの物量ですが、きちんと整理整頓されているのも特徴的ではないでしょうか。
几帳面な人というイメージを抱いていたので、「漱石らしいな」と何だか納得させられてしまいます。

目を凝らしてみると、和書に限らず洋書も並んでいるのが分かります。
これらは、留学していた漱石自身が実際にイギリスで買い込んできたものを再現しているのだとか。
漱石の蔵書や資料などを集めた「漱石文庫」を持つ東北大学附属図書館の協力を得て、蔵書の背表紙を撮影し、制作されたのだそうです。
重厚な雰囲気も素晴らしいこちらの展示室ですが、細部の再現性にもこだわっているとわかると、いっそう魅力が増すようです。

 

展示室への入口上部に掛っているのが、安井曾太郎《麓の町》(1913年)の写真。もとの絵画は県立神奈川近代文学館に収蔵されています

ところで、この書斎を再現するにあたっては、悩ましい問題があったようです。
それは、広さ。
漱石の遺族や門下生の記述に食い違う部分があり、書斎と客間の広さが8畳なのか10畳なのか、はっきりしなかったのだそうです。
それが、この展示室づくりを通して「10畳だった」と特定できたのだとか。
さて、どうして広さが判明したのでしょうか?

前述の通り、漱石山房は空襲で焼けてしまいましたが、一部、焼失を免れた貴重な写真資料もありました。
洋画家・安井曾太郎が描いた《麓の町》――この絵が、漱石山房内の客間を撮った写真に、写り込んでいたのです。
もとの絵画は現存していますから、写真を解析すると、大きさの比率を割り出すことができます。
比率が分かれば、写真に写っている他のものの寸法も割り出せるようになるので、客間の広さも特定できた……というわけ。
こうして、客間と書斎が、それぞれ10畳で再現されました。

このエピソード、良質なミステリの謎解きを読んでいるような気分になりますよね。
いやはや、研究者の方々の熱意には、拍手を送らずにはいられません……!

 

漱石山房の再現展示室をぐるりと周回すると……おや、館外の路地とまるで繋がっているかのような一角が。楽しい仕掛けがふんだんに盛り込まれています

 

2階の資料展示室では、より深く漱石の作品世界に触れることができます

 

絶筆となった『明暗』の草稿(レプリカ)。こちらは反故となったため、裏面に漢詩が墨書されています。ちなみに、この漱石専用の原稿用紙は、橋口五葉によってデザインされているそう。橋口は、漱石の本の装丁を多くつとめた画家でもあります

2階の展示室では、漱石の作品世界がさらにクローズアップされています。
詳細な情報を得られるのはもちろんのこと、レプリカながら草稿の生々しさには高揚感を覚えます。
初版本の装丁や、原稿用紙など、当時のデザインに注目してみるのも良いかもしれません。
ほかにも、漱石と美術との関係を記したパネル展示なども充実していますから、芸術論を展開した『草枕』のファンにはたまらないのではないでしょうか?

 

2階展示室にて、「漱石を取り巻く人々」の相関図。錚々たる名前が並んでいます

こうして多方向から捉えてみると、改めて漱石の「知のアンテナ」の広さに感嘆させられます。
たとえば、「漱石のアンテナ」がはっきりと見えるのが、このパネル展示。
漱石を取り巻く人々の相関図からは、知の巨人たちが互いにどう影響を与え合ってきたのかが窺えます。

その生涯の間に明治維新を迎え、新しい時代の担い手となった夏目漱石。
この相関図からは、そんな新時代の旗手たちの、奮闘の軌跡が垣間見える気がします。
昨年ご紹介させていただいた、鎌倉文学館の特別展「明治、BUNGAKUクリエイターズ」にも通じるものがあるかもしれません。

 

2階展示室の奥ではテーマ展示「『人と人を結びつける』ことば 寄贈・寄託資料から」が3月10日まで開催中。学生時代の友人、恩師、作家志望の女性など、さまざまな人々に宛てた漱石の書簡などが展示されています

 

漱石の帝国大学時代の友人・立花銑三郎に宛てた、漱石自身の肖像写真。当時は、友人同士で写真の交換がされていたようですね。こちらも1894年のものだそうですから、写真文化が一般的に浸透し始めた頃でしょうか

 

展示を見終わると、すっかり夕方に。館内の明かりが周囲に優しく溶け込んでいます

時間帯や天候によって、異なった表情を見せてくれるのが新宿区立漱石山房記念館。
鑑賞の後は、館の外観を眺めながらお隣りの漱石公園を歩いたり、「周辺まち歩きマップ」を片手に漱石の散歩道をなぞってみたりと、さらに充実の体験ができましたよ。

それから、キュートな猫の看板が特徴的な、館内1階のCAFE SOSEKI(カフェ ソウセキ)も試してみたいところ。
今回は時間の都合で寄れませんでしたが、漱石にまつわるオリジナルメニューは、きっと新しい「新宿の記憶」を彩ってくれるに違いありません。

 

●新宿区立漱石山房記念館
http://soseki-museum.jp/
※テーマ展示「『人と人を結びつける』ことば 寄贈・寄託資料から」は2019年3月10日まで